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Concept Development ~中上級:沿革と経緯

How to Antique: Secrets from the Experts | Reader’s Digest

 

はじめに

The Instituteは長期に及ぶ経験と吟味により2020年に活動をはじめました。その道程は複雑で、常に変容し続けているため、一言で表現するのは不可能です。ですので、ここでは私たちの活動の基いである「深刻な心理療法」に関するキーコンセプトを元に解説します。その方が、単純な年表よりも当機関の活動の多様さとその変遷、その中で一貫している姿勢が伝わると思ったためです。

キー・コンセプト

そのキー・コンセプトとは「健全な懐疑主義を保つこと」と「生活機能水準の向上をもたらすこと」です。前者は、専門家である私たちのとるべき姿勢を。後者は、専門家として頼っていただく際に目指す目的です。当機関はまさにこの2つのためにあると言っても過言ではありません。こうした概念の解説をしながら述べていきましょう。

誰しも若い時には、「博愛主義」や「平等」といった考えに憧れたり、たとえ自分の欲を追求することに熱中してもそこにはとても「純粋さ」がみられるものです。ですが、それは年齢とともに変わっていくことがほとんどです。まずは、当機関の軸となる「心理臨床」にそって書いていきます。ここで注意していただきたいのは、一見するとこの話は、普通のビジネスの世界や家庭生活とは縁遠く思われがちでしょうが、根本的なところでは、そう、人の暮らしのあり方としては、それほど大きな違いがないということです。

子供の頃、自分や周囲の人が苦悩する姿に胸を傷めた経験がまったくない人は少ないでしょう。その感受性が強かったり、その人の素因や環境に辛いところが大きければ、人より大きくそうした気持ちを抱いたかもしれません。その中で、一部の人は「他者の気持ちを支えたり助けたりしたい」と感じ始めます。一部の人は、その後思春期になり、感受性・活動性・身体的変化の高まりにおされて、自分や他者との日常生活の経験の中でより強くそうしたことを感じることもあります。

このあたりから大きな分かれ道が目に見えるようになるのはみなさんもご存知でしょう。他のことに興味が移ることはよくありますし、向いていないと感じたり、自分の能力や根気がついていかなかったり、その他にも生活での余力や精神的なゆとりが不足したり。自分のことでも人のことでも、そういったことで諦める選択がおきる現実を見たり経験したことがない人はいません。これは必ず不幸を意味するものではありませんが、必ず良い結果が得られるわけでもありません。

もしこうした結果、いわゆる「心理の仕事(相談やカウンセリング業務)」に就いたとしても、その後もいくつかの分岐点があります。よい先生に出会えるか、自分に向いた方法が見つかるか、良いトレーニングや仕事が見つかるか、生活のゆとりがどれくらい手に入るか、自分にどれくらいの能力があるとはっきりするか…。数え上げればキリがないかもしれません。場合によっては、自分が仕事の技量を身につけるために、時間か体力、楽しみ、お金、家族をどれくらい犠牲にするかを決める(同時に何かを諦める)こともせまられるものです。

職業の選択や進展、諦めの流れを少し追ったのには理由があります。先に進めば進むほど、自分が幼い頃思い描いていたものと大人になってから必要になる生活ごと、仕事に求める願望よりも自分にとって大事にしたいもの、能力や体力、資金力などのために諦める選択も増えていくことは、すべての人に共通していると思います。ここに大きなテーマが浮かび上がります。こうして辿り着いた自分の姿をどう評価するか?それが「健全な懐疑主義」のはじまりだからです。

健全な懐疑主義

この視点は、特殊な心理療法の技能を身につける上では必須のものだと思われますが、どの職業や生活スタイルの人にもあてはめることができますし、もしそうできるなら、通常よりも驚くほど視野を広くしてくれるため有用だと言えます。

人がまがりなりにも自分で暮らしを成り立たせるよう生きてきた場合、偶然や自分の意志によって諦めも含めた人生の分岐を経験するのと同時に、幸運や周囲の助けに感謝する面もでてきますが、また一方では自負心や自信もついてきます。詳細な解説は別の機会に譲りますが、その際、その自信と自負は完全に現実に裏打ちされているわけではなく、人によって程度にグラデーションのような差はあるとはいえ、ナルシスティックな虚構により支えられている面も必ずあります。そして厄介なことに、この現実の自信・自負と虚構に基づくものの区別は突き詰めるととても曖昧で一部は選り分け不能です。

結果として年齢を追うごとに、主に金銭を介した暮らしやアイデンティティといった自己保全を揺るがさない目的で、この曖昧さが用いられ、しかも徐々に固定化され頑ななものになっていきます。知る限りにおいて、これを完全になしにできる人間はいません。おそらくこれは、世界や宇宙、自然現象に比べ人間があまりに小さな種にすぎず、それらを(恐怖が生じないほど常には)制御できないことに気づけてしまうほど知性が発達したために、往々にして圧倒された気持ちになりやすいことや、そうした気持ちの中で生き続けるるために(希望という名の支えとして)大きな自負心を必要とするためだと思います。そしてまたこの原理は、ヒトがもともと個だけでなく集団組織で共動する、すなわち社会を作ることで自分たちを保続・増殖できたという偶然の結果論に端を発しているのだと思います。

これは大小はあるとしても、人間に共通する一つの性質でしょうから、それがことさら良いとか悪いとかは言えないと思います。ですが、ヒトの心を真摯に誠実に、主観とともに客観もする必要がある深刻なレベルの心理療法を身につける上では、この選り分け不能な現実と虚構(専門用語では幻想 phantasy や心的現実 psychic reality と呼びます)の識別をいつまでも峻別しようとする試みが、前提として重視されることになります。

この虚構(幻想・心的現実)は必ず人に害をもたらすわけではありませんが、まったくないようにできるものでもありません。そして、日常ではこの峻別は必ず問われるわけではないのです。ですが、最も専門的な領域では必要不可欠なものとなります。

(付け足すなら、一部の心理療法や宗教、癒やしの技、神秘的な考え方は、上記の苦難を持ちながら日々を生きる生物としての生業をなんとか進めるために発達してきました。それは、健全な懐疑主義よりも日々をなんとか生きられるようにすることに重点があり、それゆえ信奉し頼っている間だけ効果があったり、理想化が維持されないとならないことが多いのですが、詳しくは別の機会に触れます。)

なるべくシンプルな問いの形にするとこうなります。「私たちのこの考えは虚構(幻想や思い違い、拙速な結論)ではないか?」「私たちは自分自身の、もしくは自分の帰属するコミュニティの豊かさのために、その判別を曖昧に止めようとしていないか?」。もし、こうした問いをとりいそぎ生きるために、もしくはこれまで培ったものを手放さないために、時間の無駄と感じて捨てたり諦めるとしたらどうなると言えるのでしょう?

多くの仕事ではこのことは問題にされません。そうすべきかもしれませんが、この問題に取り組むことで現在進行形の暮らしが苦しくなってしまうとしたら棄却されても仕方がないと思われています。(これもこの文の本筋からそれるので別の機会に譲りますが、このことが戦争や収奪を否認したり抑制できにくいことと関係するとしたらとても大きな問題ということになります。現代までのところ、このことを扱えるほど人間は余裕のある生き物ではないのでしょう。)ですが、人の(場合によっては神経活動も含む)精神、心、性格の行き詰まりをより深く扱わないと変容を起こせないことが問題になる職業に就くとしたら、先に述べたように常に抱くべき視点だとはっきり言えます。

それは、この仕事の場合、人の話の中身や振る舞い、一緒に過ごす時間の中で、ご本人も周囲もつかめていないものを言葉のやりとりで明確にすることが求められるからです。もしそのやりとりに上記の曖昧さをまぜこぜのまま、「それでよし」として続けてしまったら、進展に見えたものが長期的にはそうではなかったと、とても時間が経ったあとで結果論でわかることになります。街なかでならともかく、霧の中など生死に関わる場所を進むときには、それがいかにキケンなことかはおわかりでしょう。まして、万能ではないとしても登山案内のプロがそうあってはいけないことは容易にわかります。

年齢や経験を経てから、道を戻ったり、自分の来た道がちがっていた可能性を吟味するのは苦痛なことです。ですが、その視点を持っていないと、この分野だけのことではなく、探究や全く未知の発見はできません。そのためには、ある意味で常に、自分の中でも外でも起きていることに(前例や凡例の多さに関わらず)疑りの目を向け、立ち止まって吟味する必要があります。特に、自分にむけてのそれが重要なのですが、もう一歩踏み込むなら「果たして自分は猜疑すぎはしないか?」という視点も同時並行的にもつ必要があります。そのことがわざわざ「健全な」をつけてある理由です。そうでないと、生活をすることが、長期的には現実を細らせるような癒やしや楽しみ、安楽さと同様、生活を邪魔する難解さに陥ってしまうことは容易におわかりになるでしょう。

この特殊な視点をもって、心理臨床を見返していくとたくさんのことが浮かび上がってきますし、他の職業や人の人生・生活・考え方にも大いに役立つことがわかりました。それは、美辞麗句に潜むものや気が楽だからと考えをやめること、複雑な難解さに混乱した気持ちになり、とってつけの言葉で埋めることを見究めることを可能にしてくれます。ですが同時に、このことは2つの大きな限界が伴うことも回帰的に呼び起こします。一つは、現実と幻想の峻別に重要な懐疑を健全に維持する能力を獲得できなかったり、衰えて失う現実にも目が開かれること。もう一つは、これがあくまで職業的に特殊に鍛錬した技能であり、それ以外の時間には私たちにも現実と幻想を区別したくなかったりできない部分がゼロにはならないことです。

これは悲しいことですが、もしこの視点を持てなかったり、日常的に「いやそんなことはない」と感じるなら、危険だと言えます。先程の例を借りるなら、プロ中のプロである登山ガイドが未踏の山を登る際に、そんな気分で要られたら、とてもではありませんが頼る気にはなれないのは容易におわかりでしょう。シンプルで率直で経験的な直感に裏打ちされた即断即決は頼りになることも多いわけですが、その底にこうした慎重さが見えなければやはり危険と言えます。

ここで言う心理療法の仕事は、とても長期に渡るうえ、とても霧深いといえるほどの判別困難さが伴う仕事なので、ともするとこの違いは見失われたり脇においやられがちです。日常的には私たちも気楽で楽しそうなことに飛びつくただの人間なわけです。とはいえ、この「健全な懐疑主義」を保つことは、ただ単に慎重や臆病であるだけではなく、日常ではとても手に入らない広い視点と冷静さをもたらしてくれるものだと言えます。

懐疑についてのもう一つの視点

一方で、そうした仕事や暮らしの経験を続けているともう一つの事実に気づくことができます。それは職業柄、人の半生を見聞きする経験が多いためかもしれませんが、前の項で挙げた姿勢を持っていないと見落としがちなものだと思います。

多くの教育・援助・指導や助言、そして果ては治療にいたるまで、「人の生活をより豊かにする」ことを目的とする仕事の場合、自分たちが行ったことを短い期間で評価できることはほぼありません。というのも、もしそうした仕事が「関わっている間だけは効果があるが、終われば効果がまったくなくなる」 との認識の下に行われていれば別ですが、実際に行っている側も受ける側も多くの場合「そのことを通じて何か不可逆なよい変化が起きている」と感じるからです。懐疑的に言うなら、これ自体が完全な幻想に過ぎない可能性もあります。ですが、もし完全にではなかったとしても、部分的には幻想であると見て検討する必要があります。というのも、もう一つの極端な視点「必ず不可逆な良い変化が多少なりとも起きる」とした場合、そうみなされた「効果」が時間とともに薄れていく実態を、自分たちの未熟な時期のケースでも有名な臨床家たちのケースでもたくさん目の辺りにしたことがあるためです。もしそんな経験はない、という援助職の人がいるとしたら、とても驚きます。きっとその人は人知を超えた存在か現実と幻想を区別することをしない人間かのどちらかだと思います。

現実的視点に立ち返るなら、「なぜ努力や工夫した関わりにも関わらず不可逆な変化が生じないのか?」は先の項目同様、私たちの限界を示唆しています。私たちの行っている援助は、場合によってはもしくは全てが、部分的もしくは全体的に、その場の(といっても年余に亘りますが)気分の良さや改善しかもたらしていない可能性を検討する必要があるのです。ここにも現実と幻想の区別や主観と客観の境界のあやふやさが関わります。こうしたことを判定する側の不安や欲からくるバイアスの影響も、私たち自身を含めて否定することはできないと思うのはおかしなことでしょうか?

このことが様々な異論を呼び起こすことは容易に想像がつきます。それは仕事の現場でもよくみられますし、また、健全な範囲であったとしても自分に向けた懐疑主義を尊重するなら湧いてこないはずがない異論だと言えます。

それでは、私たちが行っていることの持続性を身もふたもないほど率直に判定できる方法はあるのでしょうか?これもまた困難な問題です。ですが、短くても数年ながければ10年20年以上持続的か間欠的に同じ人に関われる心理臨床においては、幸か不幸か結果論的にこのことが可能な機会をいくつか持てることが多く、そこから、関わりの効果をどのように判定していくかの(絶対基準とは言えませんが)判断軸を想定するようになりました。それは彼らの生活水準をみていくことから始まりました。

ただ、生活水準から見る観点では、それだけで判定することは不可能でした。というのは、ご本人に生活を組み立てる技能が小さかった場合でも、家族などに財産があると結果として生活水準が高く保てたり財産の継承で高まる人もいました。また賭け事などで幸運が訪れ財産が転がり込んだ場合にも生活の水準は上がります。もちろん逆に突然すべてを失う人もいます。いずれにせよ、自己責任であれ偶然の不可避であれ、生活水準は急に変わります。中には、それにより上昇した生活水準が残りの人生の間中続く人もいました。人生は長くてもおおよそ80年から100年ほどですから、その間持続できればそれがその人の生活水準だったということになります。そしてもう一つ驚くような経験に何回か出会いました。それは、どうみても生活水準は低く、大変苦労している人で、日常を維持するのもやっとなのだと見えるのにとても真っ直ぐな姿勢を見せる人たちでした。彼らは普段全くそのことを前面に主張することがありませんでしたが、あまりに一貫した姿勢と、困窮して見えても日々の暮らしをコンスタントに続けている様子には胸を打つものがありました。彼らは問うと慎重に答えてくれました。自分の限界とできることを自覚し、決して心地よいばかりではないのに周囲の助けに感謝し、苦しさと無縁ではないけれど持てる限りの力を使って自分の足で歩いていけることにとても満足していました。これこそが、とても健全な自信と自負に思えますが、彼らの生活水準はとても低かったのも確かです。

生活機能水準の着想

それでは、何をもって私たちの仕事が人をよりよく、もしくは豊かにしているのか(いないのか)判定すればよいのでしょう?

心理臨床、ことに深刻なことを扱う心理療法において私たちが目指すものは、理想論のきわみとして「私たちが関与した間に行ったことで良い効果が持続すること」のみならず、「誰とどこでいつであれ、自分の限界を検討しながら自分を保ち、思考や感情の自由な広がりを内面的には保ち、関わりを続けられること」および「いずれ関与を完全に終え、私たちについての記憶が薄れ痕跡になること」と言えます。

「生活機能水準」はここまで述べたような経験と実効性のフォローアップ、自己懐疑的検討から生み出された概念としての造語です。

もともとの発想は、アメリカの精神医学会による統計的分類手法が大きく影響した診断マニュアルに付随的に提案されたGAF(機能の全体的評定尺度)というスコア方法から得たものでした。これは、生活上の必要な行動や組み立ての能力を客観的に数値化したいという必要性から生み出されたものです。この点においてはアメリカの精神医学会は誠実で、他の要素を省いて、その時点でどれくらいの社会・個人的生活が可能な能力があるか?という単純な指標にとどめています。それゆえ、このスコアはバイアスは少ないのですが、その時点時点での評価しかできないことと、誰から見ても明らかな客観性にしぼっている点に限界があります。すなわち、前に上げた最後の例の人たちは低くスコアされます。

現在GAFはWHOASというWHO制定のスコアに移行されています。そちらには認識理解能力などのGAFよりも心理的精神的機能の要素が加わっています。ですが、同時にQOL概念も含みこんだ結果、自己評価に限定されています。これは、こうしたスコアを他者から老けられることへの自負心の傷つきへの配慮による主観に重点を置いた相違点です。ですが、やはりここでも現実と幻想の混交の問題と情緒や思考の広がり、および持続性の判定の難しさが残っています。

ですので、ここでいう「生活機能水準」においては、上記のGAFやWHOASの考え方とその限界を踏まえつつ、スコア化はしないで、どちらかといえば自負心や自身の現実性と思考や情緒の内的な広がりとそれを現実において外界との関わりでどれくらい自分と周囲の生活のバランスのために用いることができるかの検討を話題にするための概念としておこうと思います。

難しい概念の説明になりましたが、一般の方にはかえってわかりやすいかもしれません。ごくごく単純に言うなら、大人の場合「どれくらい稼げるか(その代わりに暮らしを切り盛りできるか)?、その際虚構がどれくらい悪影響をいずれもたらしそうか?、自己満足だけでなく、どれくらい感情忍容性がみられ、その中でどの程度自分に正直だったり、周囲に害のない範囲で自由に幻想を持てそうか?」となるわけです。

むすび

現在の所、私たちの機関が心理の専門職の方と働いたり研修・研究を行う時だけでなく、その他の方に私たちの(こうした思索に基づいた)学習や相談を提供する際にも、これらの考えをもとに行っています。

説明は難解に思える方も多いと思いますが、根本的な姿勢が一貫したベクトルで徐々に固まってきた歴史は伝わったことを願います。