なぜ今、心理療法を身につけるのに「健全な懐疑」が必要なのか?
(コロナ問題の前後関係なく)現代であれ、それ以外の時代であれ、「専門家」として一人前になるために、技術を磨くだけでなく、宣伝(場合によっては阿り)をしたり、仕事による収支を見据えたりをすることなく済ませることは可能でしょうか?
現実には、たとえ一生誰かに雇われたり支援してもらうとしても、それら抜きでは殆どの場合、どこかで大きな壁にぶつかるように思われます。
それらを考えること・決めることの多くを誰かに任せておくなら、最終的にはその相手の方針にかなり従わないといけません。
これはいけないことでしょうか?一般の暮らしや別の分野の専門家の場合にはそうでないことも多いと思います。人は自分だけでは掴みきれない現実を誰かといることで補い合うものですし、その時に「甘え」たり「自分のこととして考えない」ことで自尊心の傷つきを和らげようとし続けます。比較的精神的に敏感だからこそ創意工夫ができる生き物である一方、傷つきやすさを見ないでおくようにすることで目の前の現実の生活を回すことができる面があるようです。
動物の世界でも健全な範囲の本能的反応として、ネコの例をあげることができます。彼らのかわいい姿としてよく知られていますが、ネコは狩りに失敗すると時々瞬間的にごく短時間の解離反応を見せます。急にあさっての方角を向き「何があったの?」という顔をして別の行動に移るのです。
ヒトの生活でも、似たことが見られます。寿命の間、諦めて目をつぶり合いさえすれば、ネコのように生きることもでき、それはネコよりは長い一生をヒトとして上手に逃げ切ったことになるのです。親族・配偶者・スポンサー・パトロン…様々な相手に、ヒトは心理的にだけでなく生活や経済を頼らないと生きられない生き物です。それらがフェアであるか、(非言語的にでも)お互いの合意が成り立っていれば健全な範囲と言えるのかもしれません。
ですが、もしみなさんがこのジャンルの専門家になろうとしており,ましてそれが人の深層心理を扱うもので、そのうえ、クライアントが諦めるにしろ進展するにしろ自分で受け入れて決断していくことを助けようとするものだったなら話は別です。
なぜなら、この専門分野は特に、自分が得た知見を考えられる言葉にしていく性質が必ず伴うからです。
上記のようなあれこれは、医療でも相談や援助の業務でも、クライアントとやりとりしているうちに浮かぶこともあるようなことです。
一方、この機関が提供するのは「好むと好まざるに関わらず各自が自分の足元を見られるようになることを通じ、揺るぎなく歩みを進めていく方法」に関することです。そのため、その実践の中で浮かんだ考えは、ささいなものでも意外なことでも抵抗が(クライアント対して示す上でか自分の気持の中でかに関わらず)湧いたり、非常識に思えることでも、重みのあるプロとしては必ず自分の中で拾い出し考えていくよう務めないといけません。
このことから、現代心理療法のどの学派でも、「訓練分析」「教育心理療法」というものが推奨されています。また、同じく現代でほとんどスタンダートといえる「スーパービジョン」という指導方法もあります。ですが、それらさえ受けていれば万全で確かなものが手に入るのでしょうか?
というのも、ちょっと、いえ、きちんと立ち止まって考える人には自明の理だと思いますが、私たちがクライエントにいずれ身につけてほしい姿勢は「各個人が自分の独自性を把握し、それを使えるようになること」なわけです。ですが、それは同時に、私たちが前もって持っていなければ成り立たないものなはずです。にも関わらず、ずっと指導者のことを後追いし続け、なぜか学派という流儀・派閥的なものに(まるでそういう絶対真理があるように)頼り続ける人がいるのはなぜでしょう?
スーパービジョンや訓練分析を受けた人にもそうした人が多いのは、もはや私たちの学問・臨床実践の方法が何か固定観念的、既得権益的な枠組みに囚われてしまい、型はあるけれど自由な発想はないものにすっかりなっているのかもしれません。そんな懐疑を前提にした論理や思索をほとんど聞かないのはおそるべき事態だと思うのです。
#健全な懐疑