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On degree レベルやランク分けについて

当機関ではいくつかのレベル分け、ランク分けの概念を有しています。

どんなものごとにも、水準の低いところ(もしくはゼロ・レベル)からはじまるものですよね。そして厄介なのは、kのサイトでは何回も触れていますが、隠しておきたい欲や恥ずかしさからの見栄です。こうはきり言える理由は、自分たちもかつては自覚の持ち方さえ分からず、そうした感情に乗っかったり流されていたためです。誰にでもある声質ですから。(これを否定する人もおられるようですが

仕事、ましてプロフェッショナル、しかも人を何ら化手助けすることを「現実的実用性の下で」行う者としては、そのままではうまくいかにものだ、と今でははっきり主張できます。

ある種の技術職や職人の人たちにおいても、こうした「差」はあるものです。多くの場合、需給関係や依頼者の急ぎ具合によっては、(単に金額の折り合いというだけでなく「期待はずれ」な結果しか得られないこともままあります。それは例えば、はっきりした違いが見えやすい医療においても観察されますよね。

それでもなお、人はうっかり信じたり、納得したり、諦めたりしながら「ことに及んでは/時が来たなら、選択する」しかありません。かくて、また様々な情報を仕入れ、選び、満足したり(たとえそれが本当に現実的なものでなくても)、諦めたり…

要するに、明確な判断の指標は本当には乏しいのです。それは、ヒトがまさに「こころ」(気持ちといってもよいでしょう)という形なきカタチ(「在りよう」とでも言うべき活動精)を持ったことによるようだと思います。

さて、本題です。

そうした経験から、私たちが知ったことは、

* (私たちも無縁では暮らせませんが)既得権益を排除して自分の実力を考える

*最終的にそれは主観も客観もできない

*だが、自分たちや相手を「見知らぬプロ」として評価する視点を持ってみることは有用そうだ。

*そして、それさえも自覚し得ない(無意識の)欲や不安回避、混乱に彩られるものだと知っておく。

*また、世の中のものごとの絶対的な判断基準で通用するのは、せいぜい「物理現象による結果」だけだと考える視点も「併せて」保持しておく。

・・・この文章も難解になりましたので、後日要約したいと思います。

そんな風に視点を積み上げ磨き直しているうちに、いくつかの具体的な条件がわきました。それらはプロフェッショナルの程度を見極めるにも、自分や相手の誠実さを見極めるのにも約だします。

それは「責任の自覚の程度」というものです。

 

ここまでくればあとは当機関での分類について触れればよいでしょう。

レベル分け

当機関ではプロフェッショナルの程度を「レベル」として分類しています。

これもはじめは心理療法家について考え始めたものですが、他の様々な専門職にもあてはめるようになりました。

・ 初級・・・言わずとしれたビギナー。入門者や初心者、初学者といったところ。本気のプロの会話で、いかに「社交的なへりくだり」だったとしても「自分は初級者でして」と述べる人は、どんなに経験者でも知識人でも器用でもこのレベルより劣ることが多い。(以下の「責任ランク」について参照。)

・中級・・・初歩の作法はカタチは人それぞれでも、プロとしてまもれるようになっている。自分にいつもまだ何が足りないのか考える姿勢が重要。いわゆる最先端の技術・実践については想像の域を出ないレベル。

・ 上級・・・自分で主体的に状況を作り、探究(explore)をする姿勢。現実の日常生活的認識と身も蓋もない実態のギャップを痛感している。諦めを知りつつ諦めない人とも言える。

責任ランク制度

上記のようなレベル分けは、プロとしてのものです。しかし、現実で働き、時にチームを持つようになると、それぞれの人がどれくらいたすけになるのか?ことにあたって、特に機器状況においてたよりになるのか、判定する必要があります。mた、もう一方で「プロでない」性質の仕事も世の中にはたくさん存在します。

様々な職業の人とあっていく中で、徐々に「プロフェッショナル」と「プロでない職業の人」とでは、仕事への向き合いが異なることが分かってきました。これもたくさんの矛盾から目をそらさずに共に働いたり、相談に乗ったことからきています。

そして、それらの違いを考えつつも、本当に手を取り合える人は主観的にも客観的にも「掛け値なく等身大の責任感情」を持つことに近い人達だ、という言い方に(当機関ではというだけですが)なってきました。

この問題は実は重要です。なぜかというと、短期間であれ、長期間であれ、人を雇う時にとてもよい指標になるからです。それに、こうした思索は自分の姿勢を見直すのにもよいフィードバックとなるのはおわかりでしょう。

その上で、当機関の(主に求人活動の際に用いる)この視点による分類を「責任ランク」と呼ぶことにしました。。主なランク分けは以下のとおりです。

* トライアル・ランク

*一般責任ランク

*管理責任ランク

*運営責任ランク

*経営責任ランク

分かりやすい例を3つあげましょう。

● 心理療法の仕事でも、前のレベル分け、次の技量ランクが高くても「運営の管理責任や収益性を考えられない人の場合」一般的なランクに留まります。

● 経理を扱っており、税務や収支の運用を任せられたとしても、部下の指導や全体の収益性にコミットできなければやはり低めのランクになります。

● アルバイトで片付けだけをしている人でも、先輩の仕事ぶりに習い、惜しみなく人に教え、自分の給与の出どころについて会社のキャッシュフロを漠然と描ける人は高いランクにまで到達します。

「そんなの無理だ!」と思う方がほとんどかも知れません。確かに自分で考える習慣を早めにもつようにならないと厳しいのかもしれません。自分たちももっと早くこうしたことを教えてもらえればよかったなあと思いますから。

こう考えてみるのをお勧めします。「自分の家庭や育った環境の中で、誰が日常的な責任、人を統括する責任、社会の中で日常を回す責任、お金の責任を負っていたのだろう?」と。彼らがどれくらい自覚したり振り返れていたか?(いなかったか?)。形だけでも責任を負っているとその人や自分にどういうことが生じるのか?」

技量ランク

今では、具体的に一緒に仕事をする時以外のシーンでは「レベル分け」に吸収されてはいますが、これは比較的純粋に技術の知識・経験・理解・器用さなどで決まるものです。

臨床と仕事、雇用、ビジネスの経験から、こんなことが分かっています。

「たとえ、嫌な人、社会性が薄い人、自分とは性格・ノリイ・考え方が合わない人、長期間一緒に働いて成果を出そうとしても両者ともの効率が下がる…そんな人でも、プロとしての技量を十二分に持っていて、その日となり、もしくは、その人と気が合うもの同士だと、すごく成果を出せる人」そんな人がこの世の中には時々います。

そのことから学んだのは、「そこまで極端な人は少ないとしても、あらゆる人に技量・技術についての水準の幅がある」というものでした。

これは主に短期間、大きな成果を目指すワークグループ、タスクフォースを組むときや、単発や短期間の仕事を業者や請負人に発注する時に考える概念となりました。

まとめ

当機関で、記事を分類する時に「レベル分け」を用いるのはこうした経験の積み重ねの思索によるものです。また、様々な形で人を集めるときにもこのようなこと念頭においたり、雇用の際には給与決定の尺度にしたりしています。

世の中ではとてもとても「給与体系や職能の評価を公表しない」風習が大きいのですが、それがヒトというものの文化なのかもしれません。

ですが、現実を築き上げようとす考え続ける方にはわかると思うのです。「文化とは良い意味では細やかな所作の積み重ねだが、既得権益や甘い汁に寄生したがる方にとっては、hとの罪悪感を揺さぶることで防衛できる強固な鎧にもなる」ということを。これは、精神分析のみならず、思索的な心理学では集団の精神病的なナルシシズムという先端のテーマです。